うつ、顎関節症を治そう

~患者(私)の体験記と克服法について~

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【第1回】106センチの視点、車いす起業家「垣内俊哉」さんのバリアバリュー│半生に迫る!

      2017/12/10

【バリアバリュー ~「障害」を「価値」に変えるということ~ 】

こんにちは、青年A(@seinen1234)です。

骨形成不全症、心肺停止で昏睡状態となった垣内さんの物語をお伝え致します。

垣内俊哉さんは26歳の実業家で、株式会社ミライロの創業者です。
(株式会社ミライロは:誰もが快適に利用できるユニバーサルデザインのコンサルティング会社)

ユニバーサルマナー検定を主催している一般社団法人「日本ユニバーサルマナー協会」の代表理事も務めております。

障害者の自立を考え、「バリアバリュー」(バリア(障害)をバリュー(価値)へ)という考えを提唱されておられます。
『バリアバリュー 障害を価値に変える』(垣内俊哉):”明けない夜はない”ということ。

垣内俊哉(株式会社ミライロ代表取締役社長)

出身 岐阜県中津川市(1989年4月14日生)
経歴

2006年 岐阜県立中津高等学校 中退

2008年 立命館大学経営学部に入学

2010年 株式会社ミライロを設立

2012年 立命館大学 経営学部 経営学科 卒業

2013年 一般社団法人日本ユニバーサルマナー協会代表理事

受賞歴

岐阜県発明くふう展 中部経済産業局長賞

第63回 全日本学生児童発明くふう展 特許庁長官賞

The 2nd International Exhibition for Young Inventors 出展

第11回 キャンパス・ベンチャー・グランプリ大阪 ビジネス大賞

第6回 キャンパス・ベンチャー・グランプリ全国 審査委員会特別賞

大阪市 CB・CSOアワード2011 グランプリ

京都ベンチャークラブ 京都クラブ賞

日本中央ベンチャーリジョン 日本中央リジョン賞

国際ソロプチミストアメリカ 連盟賞 第2位

近畿地区人間力大賞 グランプリ

みんなの夢AWARD3 グランプリ  他多数

僕は一度お会いしたことがあるのですが、明るく、話上手、聞き上手な印象を受けました。

社長の風格があり、僕の方が背が高いにも関わらず、雰囲気に圧倒された記憶があります。

垣内さんの半生と僕が学んだことを2回に分けてお伝えさせていただきます。

垣内俊哉さんの半生~20回以上の骨折、人生の5分の1を病院で過ごす~

病院

骨形成不全症という障害

1989年4月14日、愛知県安城市で垣内さんは生まれました。

そして生まれつき「骨形成不全症」という病を抱えることとなりました。

「骨形成不全症」とは、骨が弱く、折れやすい先天性の病気です。

確立した治療法はまだなく、2万人に1人の確立で発生しています。

生まれて初めて歩いたのは3歳になった頃で、初めて歩いた日、母親はうれしくて涙が止まらなかったようです。

骨折との戦い

小学校に入学した垣内さんは毎日がとても楽しかったようです。

しかし、運動会、マラソン大会などの行事の前後で、決まって骨折を繰り返しました。

「骨折→入院→手術」を繰り返すうちに、ケガが恐ろしくなり、車椅子に乗る機会が増えていきました。

クラスの行事に参加できず、何度も涙を流しました。

小学校最後の運動会直前でまた足を骨折してしまいましたが諦めきれず、「ケガなんかに負けない!」と、ギプスをつけながら力強く太鼓を叩いたようです。

障害者であることを意識する

中学に入学したある日、友達と掃除をサボって遊んでいることがクラスの問題となりました。

しかし、「とし君は障害者だから、給食の当番や掃除はできなくて仕方ない」と、障害を持っていることで免罪となりました。

クラスメイトに「障害者」と呼ばれ、自分が初めて障害者であることを意識するようになっていきました。

くやし涙の修学旅行

それでも中学校はさらに充実していました。

部活動は野球部に入り、できることをして楽しんでいました。

中学3年生になると、修学旅行が目前となり、人一倍ワクワクしていました。

しかし、行先が1日目広島、2日目離島のマリンスポーツというバリアフリーとは縁遠い場所で、垣内さんが行けるようなところではありませんでした。

2日目の朝、帽子を深く被り、溢れる涙を必死で隠して、友達を見送りました。

「絶対に歩けるようになろう」と自分に誓い、ひとりで帰路に就きました。

やっぱり歩きたい

中学までの友達と離れた高校は、自分にとって、とても居心地の悪いものでした。

常に車いすを運んでもらう必要があって、それを誰かに頼むことで「めんどくさいと思われるのではないか」と抵抗を持ちました。

常にだれかの顔色を伺い、誰かの手を借りなければいけない生活に嫌気がさし、歩けない自分を惨めな人間だと思うようになっていきました。

高校を休学、長い闘病生活へ

自己嫌悪の日々に疲れ、高校を半年たらずで休学することとなりました。

そして専門医やリハビリ施設を調べ、猛反対する親を説得して退学、大阪の専門医の治療と手術を受けることに決まりました。

しかし経過は決して良いものではありませんでした。

3カ月に及ぶ寝たきり生活を終えたあと、朝から晩までリハビリ生活を送りました。

しかし、歩けるようにはなりませんでした。

背が低いことも相当のコンプレックスでした。

担当医に「背はもう伸びない」と言われ、ありとあらゆる現実を突きつけられました。

悲しい感情に見舞われる、リハビリも進まず、ショックが頻繁に続きました。

17歳の6月、10月、12月と、3度に渡って自殺を考えました。

結局ビビッて踏み込めませんでした。

ずっと泣いていた記憶があります。

橋の上でワンワン泣いていた記憶があります。
(参考資料:ミライロ代表プロフィールインタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:垣内俊哉さん

続く

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