うつ、顎関節症を治そう

~患者(私)の体験記と克服法について~

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【第2回】車いす起業家「垣内俊哉」さんのバリアバリュー│障害を価値に変える

      2017/12/10

障害を価値に変えるということ

こんにちは、青年A(@seinen1234)です。

今回の記事は「【第1回】106センチの視点、車いす起業家「垣内俊哉」さんのバリアバリュー」の続きです。

第1回を読まれていない方は先にそちらを読んでいただきたいと思います。

バネは縮んだ分だけ伸びる

病室で一緒だった富松さんというおじいさんに6~7月頃、「君はどこまで景色を見たんだ」と声を掛けてもらいました。

「まだまだ道半ばだろう。バネは縮んだ分だけ伸びるよ」と。

その時、「もうちょっと頑張ろう」、そんな思いがしました。

あの時は死なずに、今日があって良かったなと思いますね。

生きる目的を変える~「歩く」から「環境を変える」へ~

退院して愛知の病院に行きました。

確かに自分は「歩けないかもしれない」と言われたけども、歩けるための努力を100%したのかと言えば、そうじゃなかった。

朝起きたら車椅子の後ろに20キロくらいの重りを付けて走ったり、昼間はプールに入って歩く練習をしたり、重りを付けて膝の屈伸運動をやったり。

夜になって他の患者が減ったら、自分で歩ける動線が確保できるので、杖を突いて歩く練習して。

そんなリハビリ地獄を送りながらも、やっぱり歩けるようにはならなかったので、「そろそろ目的を変えなきゃいけないな」って思いました。

この時、ベンチャーが流行っていた時代なので、ボンヤリと幼稚な考えだったんですけど、

・「仮に自分が車椅子でも事業を起こして成功すれば自分を好きになれるかもしれない」

・「大金持ちになったら、街のスロープをいっぱい増やせるな、あそこにエレベーターを付けよう。中津川のカラオケ屋にエレベーターを付けられるな」と考えて。

歩けないことが確信に変わったので、新しい道として起業という部分に憧れを持ち、そっちに踏み切ったんですね。

でも、本気でリハビリをやっていなかったら無理だったと思うんです。

歩くことを本気でやっていなかったら、今ですら「歩けるようになりたい」と思っていたかもしれない。

本気で取り組んだからこそ踏ん切りも付いて、「今は自分を変えるんじゃなくて社会の環境を変えていこう」と思うことができた。

お金を使って色んな情報を調べて手術して、つらいリハビリ生活を送って、その全てが続いての今と思うので、本当に良かったなと思う。

大きなことをするため、専門的な勉強をすること、早いうちに社会人経験を得る、同じ思いで爆発していそうな仲間を作ることの3つを目標に掲げました。

偏差値33からの一発逆転

高校を休学して2ヶ月、高校の決まりである欠席日数を超過したことにより留年が決まり、友達と一緒に高校を卒業できないことになりました。

高校卒業と認められる高卒認定(旧大検)という資格を取得し、大学進学を目指したのです。

大学ではITか経営を学ぼうと決め、偏差値33からの逆転を目指しました。

毎日、自宅から電車で1時間程の名古屋にある予備校に通い、1年間の猛勉強の末、遂に運命の入試シーズンを迎えました。

ところが、入試2週間前に車椅子で転倒し、足の骨を折って入院するという悲劇に見舞われることに…

「なんとかなる!」という合言葉を胸に、試験の日には、病院から救急車のような車で試験会場に向い、試験本番は寝たきりで解答用紙と向き合いました(笑)。

最悪のコンディションで挑んだ大学受験は奇跡的に実を結び、私は立命館大学の経営学部に合格しました。

病室で合格通知を確認したときは、喜びのあまりナースコールを押して、病棟の看護師さんたちを呼び寄せていました。

病棟全体がお祝いムードになって、みんなに祝福してもらったことを、私は一生忘れないでしょう。

大学入学、ベンチャー企業で猛烈に働く

入学後、起業という目標に向かって大学の授業に加えて、アルバイトをやりながら社会人経験を積みました。

「ブラックを通り越して漆黒」のベンチャー企業で猛烈に働いた経験が今に繋がっています。

企業が大学の構内に入居できる「インキュベーションルーム」のことを知り、コンビニで買った履歴書を持って「経営学部の学生です。働かせて下さい」と言ったら、「HTMLが書けるなら来てくれたらいいよ」と言って頂いたので、そこからがスタートでした。

昼間はホームページ制作会社の営業、夜も別の会社でシステムや服のデザインのアプリケーションを組んだり。

このインキュベーションルームはタチが悪いことに一階にお風呂があるんです。

そうなると家に帰らなくても良くなる。

土曜日か日曜日に家に帰って服を洗濯して(笑)。

もう一週間、家に帰らない。

ずっと会社のソファで寝ているみたいな生活を1~2回生の始めぐらいまで続けました。

どちらもベンチャー企業で、「ブラック企業」どころか漆黒のような会社でどぎつかったです(笑)が、「働かなきゃいけない」っていう意識と「専門的な事を学びたい」という希望を叶えられた点で立命館に進学したのは正解だったなと。

経営者の人から「歩けないことでウジウジ言ってんな。

ビジネスマンなら自分のコンプレックスはポケットにしまっておけ。

おまえが車椅子に乗っているのは不自由かもしれないけども、実際に仕事取って来ているじゃないか。

お客さんに覚えて貰っているじゃないか」と言われた時、「そんな見方もできるんだな」と思って。

そうした見方をしようと思えば、いくらでもできた。

今の事業に繋がっていますし、車椅子の視点だからこそできること、視覚障害でも人の話をしっかりと聞くのでテレアポをやってみたり。

障害をマイナスだけじゃなくて、プラスの価値や強みとして置き換える一つのきっかけを頂いたなと思います。

自分のためではなく、人のために時間を使う

2回生の時、年を取ると発症する神経系の病気が分かりました。

自分の中で何となく理解していたんですが、確定的になって漸く本気になりました。

自分で電卓打ちながら「あと残り何日かな」って計算して数字を眺めている時、辛くなって涙を流して。

でも、その時は死のうとまで思わなかった。

「今から自分に何ができるのか?」

「両親のために何ができるのか?」

「奥さん、子供がいたらどうなるのか?」と色々考えて、滋賀のマンションの一室でバシッと覚悟が決まりました。

この日まで嫌いな自分を好きになるために起業を考えていましたが、そんなブラックパワーには限度があります。

残された時間は「自分のための時間」だけじゃなくて、「誰かのための時間」でもあることに気付き、そのために過ごすことを決めたんです。

アイデアをビジネスに

会社を設立したのは2010年6月2日です。

大学で知り合った民野剛郎と「大きなことをしよう!」と、2人でビジネスアイディアを持ち寄り、ミライロの前身となるValue Added Networkという団体を立ち上げました。

毎日毎日、あーでもない、こーでもないと夜遅くまでビジネスアイディアを考え、それらを実行してきましたが、どれも目先の利益にとらわれたもので、長続きはしませんでした。

そして、立命館大学でバリアフリーマップ制作に携わった経験を生かし、これらの取り組みを全国の大学に広めるべく、マップ制作やバリアフリーに関する情報発信に関する事業を考案しました。

これが多くのビジネスコンテストで評価され、色んな人前でお話させて頂く機会が増えました。

また、私たちのビジョンに賛同し、私たちを応援してくれる方や事業に協力して頂ける方も増えていきました。

当時は創業メンバー5人でやっていたんですけど、ビジネスプランを書いて応募して評価して頂いて、30万円、50万円の賞金を得て、仲間がみんな半泣きで抱き合って喜んでいる姿を見た時、嬉しかったですね。

子どもの頃の運動会ではみんなと喜べなかった、車椅子マラソンの大会でしか喜び合うことはできなかったのが、自分達の思い一つ、考え一つ、紙一つで、自分達のアイデア一つでみんなで喜び合えている体験が良かったなと。

「ビジネスでやっていこう」と強く思えた時でした。

障害者だからといった甘えてばかりではいけない

私達の会社も儲かっているわけじゃないですけど、経営者である私個人に障害者年金として8~9万円が毎月入って来るっておかしい。

私は別口座で休眠させているんですけど、「どんなルールで運用しているんだ」「これに甘えている人もいるんじゃないか」と疑問を感じるんです。

「障害者イコール一方的に支援を受ける社会的弱者」と一元的に捉えてしまっている状況には問題があると思います。

障害者も変わる必要があると思います。

子どもの頃から骨形成不全症の患者会で、車椅子に乗っている大人と頻繁に会っていたんですが、大人達をカッコいいと思わなかったんです。

周りの人に手伝って貰って当たり前とか、凄い疑問に思っていました。

20歳くらいの人が、50~60歳の母親に車椅子を押して貰ったり、至れり尽くせりされている姿を見た時も、「カッコ悪いな。いつまで父親、母親に全部して貰っているつもりなんだ」と思ったんです。

私は「できることは自分でやろう」という意識だったので、バイキングの時も汁物以外、全部自分で取ります。

自分でテーブルまで持って行くと危なっかしいですが、できるんです。

片や周りの人に助けて貰って当たり前みたいな大人に疑問を持ちました。

私と弟は「ダサいよね」と言っていたんです。

こんなことを言うと、「垣内さんは立命館大学も出て、車椅子も自分でこげて、障害者エリートじゃないですか。他は違います」と言われます。

でも、まだまだできることはいっぱいあるのに、それらをやらないうちに障害があることを「自分が弱者だから守って貰って当然」と言い訳にしているんじゃないかと。

確かに自立が難しい人はいます。

私だって支援が必要な時もあります。

しかし、今までは障害者を「一方的に支援を受ける社会的弱者」と見なして支援してきた人達は可愛く育てる、支えてあげる、守ってあげることを当然としているので、そうした意識も変えていかなきゃいけないと思っています。

障害者の苦手なことやできないことだけにフォーカスを当てるのではなく、得意なことやできることにフォーカスして、障害者が当たり前のように働ける環境を作り、社会全体の意識を変えるのが「バリアバリュー」の考え方です。

ミライロではバリアフリーのコンサルティングだけでなく、障害のある子供さんを対象にした進路相談イベントも開催しています。

「ミライロがあるから社会が変わった」

「垣内さんみたいな人がいるんだな」

「こういった形で大学進学できるんだ」と、ミライロの事業を通じて発信していけたらいいなと思っています。
(参考資料:ミライロ代表プロフィールインタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:垣内俊哉さん

おわりに

おわりに

2回にわたる垣内さんの物語はいかがだったでしょうか?

僕自身、うつ病の時は甘えてばっかりでした。

この垣内さんの物語を読むといつもハッとさせられます。

こんなに困難な状況にいる方でも自立して頑張っていらっしゃる人がいる。

もちろん、病気、障害があることで出来ないことはたくさんあります。

でも、出来ることもたくさんあります。

「できること」に焦点を当て、前向きに生きていけたらいいなと思い、今回のストーリーを紹介させていただきました。

できることからコツコツと、支えてくれている周りの方に感謝しながら、日々を生きていきたいと思います。

ありがとうございました。

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